雑記ブログ

副業や自分らしく生きる方法とかを気ままに書いていきます。拙い文章ですが、新しい考えや視点の発見につながれば嬉しいです。

社会で使われている「元気」という言葉嫌いっていう話

元気を出せ、もっと元気よくしろ、大きな声で挨拶をしろ。こんな言葉を見るだけで嫌な気持ちになりませんか?僕はなります。


元気なのは良いことですし、挨拶もとても大事だと思います。しかし問題なのは「元気」という言葉が間違った方法で教育されてしまい、そのせいで非常に生きづらい人生を強いられている人がたくさんいるということです。

 

元気とはあなたらしくあり、体調が整っている状態のことです。社会で使われている元気という言葉は誤って使われています。声が大きくて高いことや、行動が大袈裟なことを元気だといいますが、それが元気な状態ではありません。


そもそも元気な状態というのは人によって違います。静かに集中して創作に耽っているのが元気な状態な人もいれば、人と話をしているのが元気な状態な人もいます。しかしそれを理解せず、幼少の頃から「元気=大きな声」という教育を施され、それが次第に「大きな声=良い」みたいな考えに転換されていきます。それは個人の特性を全く無視した教育であり、その教育に合わなかった人は生きづらさを感じるようになります。

他者と関わることにより自分の状態が良くなる人、自分の内面と向き合うことで自分の状態が良くなる人、それぞれ違うのに、その違いは無視されて共通の価値観を植え付けられていきます。その価値観が「外交的は明るくて正しい」「内向的は暗くて間違っている」というものです。そしてその価値観により全ての人間に対して「杓子定規」に元気な挨拶をしましょう、大きな声で挨拶をしましょう、みんなともっと関わりましょうという考えを押し付けます。その考えに上手く合う人はそのまま生きていけます。しかし中には遺伝的に自分の内面と向き合うのが得意で、他者と関わるのが煩わしいと感じる人がいます。そういった人は幼少期の歪んだ教育によりせっかく生まれ持った特性を発揮する場を与えられることもなく、無理をしたり自分を変形させて生きることを強いられます。そして大きな声かどうかで学業や能力の評価もされるようになります。こういった外交性優位の価値観に苦しんでこられた人は多いのではないでしょうか?

 

巷では「外交的」や「内向的」という言葉が対立した人間性であるかのように語られますが、実際は対立する人間性ではなく「共存」する人間性です。