組織について思うこと
仕事というのは本当にクソだ。
事務所という空間は、精神を磨耗し、向上心を奪い、何かを始めようという気持ちを奪っていく。
上司という存在は何のためにあるのだろうか。管理をしようと必死な人間たちが組織のモチベーションを低下させている。どこに向かっているのかも分からず、自分たちがやっていることも分かっていない。考える頭がない人間が上に立つとそうなる。そしてそんな人間より下の自分。
現実を悲観するのは愚者の選択であり、賢者は現実を変えようと試みるのだ。
人生は如何様にも変えられる。自分が望む世界へと進むことができる。
今日を振り返る。人に会った。それはいい。人と話した。それはいい。私が嫌いなものは報告や情報共有という幻想だ。職種によってはそれが必要なものもあるだろう。しかし私の仕事は全てが自分で進めていかなければならない仕事だ。チームで進めるものもないし、上司がフォローするわけでもない。単に上司が自己満足するため、状況を把握したいがために報告を要求してくる、そんな茶番に付き合うのがたまらなく苦痛なのだ。私は成果が欲しい。つまり結果だ。効果的なやり方はなにか、どんな工夫をすればもっと成果が上がるのか、さらなる飛躍のためにはどんな方法があるのか、そうしたことに知恵を絞るのが好きだ。
何か出来事が起こる。その度に報告をしていてはいちいち手が止まる。それは私だけではなく、報告を聞く上司だってそうだ。まあ上司の時間はどうだっていい。私の時間が報告という何にも生み出さないもので奪われるのがたまらなく苦痛なのである。
思い返せば前職でも報告報告と言われていた。状況が分からないから教えてほしい。社会人として当たり前だとも言われた。だけど私にはその当たり前が理解不能なのだ。それは成果に必要なものなのかが分からないし、時間の無駄にしか感じない。そして報告をしたときに新たな指示や報告に対して疑問を投げ掛けられるのも窮屈で効率が悪いと感じる。
私は効率が悪い、時間の無駄だと感じることを行うことに大きな苦痛を感じてしまう。だから私はコミュニケーションが嫌いだ。会社という組織に求められるコミュニケーションが嫌いだ。
一人でいると集中力が高まり、精神力も向上し、作業効率が上がる。それは誰だってそうだと思う。人がいると気が散るし、何のプラスにもならない。もし自分が会社を作るなら完全に個人のスペースで仕事をしてもらうようにする。報告もいらない。会議もいらない。そんなものが必要なほど信用できない相手とは仕事をしたくない。
そうだ、報告を求める行為は相手を信用していないから生まれる行為だ。サボっているのではないか、ちゃんと仕事をしていないのではないか、そういった疑念から報告を求める気持ちが生まれてくるのだろう。哀れなものだ。
しかしまだしばらくは茶番に付き合っていく必要がある。銭が無いと生きてはいけぬ。
私は会社に向いていない。それははるか昔から感じている。人と何かをやることに苦痛を感じるし、連携を取るためのコミュニケーションなんかクソだるい。各々が勝手に回る組織なら良い。だけどそういった組織は各々が有能である必要がある。だから自分自身を有能にしていかなければならない。私が考える本当に優れた組織というのは、それぞれが自分の強みを発揮することで一人でやるよりも大きな成果が得られる組織だ。そこには畏まった会議も必要ないし、情報共有のルールも必要ない。ただ目標が一つあれば良い。そこに向けてそれぞれが自分なりの方法で動き、成果を上げられるように努力をする。そんな組織を作りたい。
でもそのためには自分自身が周りとは違った優れた能力が必要になる。
自分がと仕事がしたい。そう思われるような能力を身につける必要がある。
そのためにやるべきことは私には分かっている。あとは為すだけだ。